大和ミュージアム探訪記(平成26年3月)・その④

「その③」(10分の1スケール大和)のつづきです・・・

さて、「大和ひろば」に鎮座する10分の1スケール大和を、1階フロアから見るだけ見たら、今度は東側にある「呉の歴史」展示室へと入っていきます。
この展示室は「呉の歴史」というテーマのもと、海軍とともに歩んできた(そして、戦後は造船・工業都市として歩んだ)呉の歴史を振り返ることができます。
余談ながら、今回1年ぶりに「大和ミュージアム」への再訪を決めた一番の理由は、

昨年の訪問時にこの「呉の歴史」展示室を完全にスルーしてしまった
(10分の1大和に感動したあまり、順路をすっ飛ばして「大型資料」展示室(大東亜戦争期の実物兵器を主体とした展示室)に行ってしまった・・・orz)

・・・という、実に残念なオチがあったからです
(「呉の歴史」展示室の存在に気がついたのは、昨年の訪問を終えて実家に帰って、もらってきたパンフレットを眺めてからでした・・・(苦笑))。

なお、この「呉の歴史」展示室に入室する段階でだいたい16時過ぎ。
時間的にはまだまだ楽勝よと・・・余裕をぶっこいておりました
(そして、その余裕は第一展示室を出て手元の懐中時計(帝國海軍・・・もどきの時計)を見たときに、あっさりと吹っ飛ぶことになりました・・・orz)。

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第一展示室入口
展示室の入口には、なぜか正岡子規の詠んだ俳句と、それをイメージした絵画が展示されていました。
確かに、呉の対岸は(子規の出身地)松山ですが、こんなところで遭遇するとは思ってもいませんでした・・・。

展示室に入ると、向かって左側には、鎮守府が呉に設置されるまでの経緯、そして、実際に呉に鎮守府が開設され、呉鎮守府のたどってきた歴史が、パネルと実物展示により展開されています。

鎮守府で使われたレンガ
鎮守府の建物を建設する際に使われたレンガ。

鎮守府表札
鎮守府の表札。

呉市電
海軍の要衝たる鎮守府が開設されたことで、戦前の呉は軍港として発展しました。
そのためもあってか、路面電車も、明治期にはすでに開業していました。

余談ながら、呉市内の路面電車は戦時中に呉市に買収されて呉市電となり、戦後の昭和42(1967)年まで営業されましたが、営業終了後にそのうちの1000型3両が対岸の松山で路面電車を営業する伊予鉄道に譲渡され、10年ほど前まで呉時代と同様に「1001~1003」のナンバーを背負って活躍していました(ただし、形式としてはほぼ同一設計のモハ50型を名乗っていました。現在では全車廃車され、トップナンバーの「1001」だけが「呉ポートピア」にて静態保存されているそうでして、一度見に行きたいところです・・・)。

・・・少し脱線しました。

この「呉の歴史」展示室で最大の大物が・・・

金剛のボイラー
戦艦「金剛」にて、かつて使用されていた蒸気ボイラーです。

ボイラー
人形は実物大ですので、結構大きいです。

ボイラー
建造当初に搭載されていたボイラーは石炭炊きだったため、このように投炭して蒸気を発生させる必要がありました。

ボイラー
ボイラーの手前には、「金剛」の模型が展示されていました。
・・・もっとも、第二次改装後(大東亜戦争に参戦した頃)の姿ですので、この頃にはこのボイラーはすでに陸揚げされて使われていなかったものと思われます
(大東亜戦争期の軍艦のボイラーは、原則として重油炊きのため・・・)。

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日露戦争関連の展示
さて、鎮守府の開設された呉は、海軍の重要な拠点として、日清・日露戦争においても極めて重要な役割を果たしました。
この展示は日露戦争に関連したものです。
手前の懐中時計は、かの東郷平八郎聯合艦隊司令長官が使用していたものだそうです。

金剛の模型
呉には鎮守府に加えて、建艦や補修を担う海軍工廠も建設されました。
こちらは呉海軍工廠で初期に建造された艦のうちの一艦、装甲巡洋艦「筑波」の模型です。
日露戦争に備えて竣工されながらも結局は戦争に間に合わず、明治40(1907)年に竣工しましたが、明治維新からわずか40年やそこいらで、国産のこれだけの軍艦を建造できるようになったというのですから、明治の日本人恐るべし・・・です。

工廠の工員が使っていたもの
その呉海軍工廠の工員たちの日常を偲ばせる、工員たちの使用していた手帳や弁当箱の展示もありました。

産業大博覧会
戦前の呉において最も華やかだった頃の一コマ。
昭和10(1935)年に開催された「産業大博覧会」に関連した展示です。

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そして、運命の波に翻弄されるかのように、大日本帝國は大東亜戦争へと突き進んでいきます。

赤城
大東亜戦争の劈頭において大活躍した航空母艦「赤城」。
この艦もまた、呉海軍工廠で建造された艦です
(ただし、建造当初は八八艦隊計画(=戦艦八隻、巡洋戦艦八隻を揃えるという大計画)に基づいて建造されたため、巡洋戦艦として扱われていました。ワシントン海軍軍縮条約の結果、建造途中から航空母艦に改装されています)。

伊16
潜水艦「伊16」。
真珠湾攻撃に密かに参加し、特殊潜航艇(甲標的)の母艦として、真珠湾の手前で甲標的を発艦させています
(ちなみに、時々誤解されますが、甲標的は「特攻兵器」ではなく、一応は敵攻撃後に収容することを前提としていました(結局、真珠湾に向かった甲標的は、1隻たりとも収容されることはなかったという残念な結果に終わってはいるのですが・・・))。

航空機
大東亜戦争前後の航空機についての展示もありました。

343空の紫電改
ひときわ目を引いたのは、呉防衛を目的(のひとつ)として組織された、二代目の第343航空隊に配備された「紫電改」の模型です。
この343空、基地が松山に置かれたこともあって、松山人にとってはなじみ深い航空隊です。
敗色濃厚な昭和20(1945)年3月19日に松山上空で展開された空戦において、帝國海軍航空隊にとって最後とも言える勝利を収めたことでも、知られています。

呉海軍工廠で建造された艦船たち
呉海軍工廠で建造された全艦船が、整然とパネルで並んでいました。
圧倒されるばかりです・・・。

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・・・・・・
・・・
圧倒されると言えば、大東亜戦争の戦局が傾き、戦死者が増えていく中で、また、銃後の国民も戦争へと駆り立てられていく中で起こったさまざまな悲劇についての展示・・・。
厳粛なる想いで見つめるよりほかありませんでした・・・
(展示物には、「撮影はご遠慮ください」とありましたが、そんなことを言われなくとも撮影しようという気にはとてもなれませんでした・・・)。

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うって変わって、展示室の最後は大東亜戦争終結後の呉の歩みについての展示です。

終戦を迎えて
戦後の呉に進駐してきたのは、イギリス軍でした。
左側の日本語による書は、呉鎮守府の閉鎖に当たって、最後の長官であった金澤正夫中将が書いたものだそうです。

戦後復興
戦後の呉は、海軍工廠時代の設備と施設も利用しながら、造船都市として発展していきます。

タンカー
巨大タンカーもお手のもの・・・かどうかは定かではありませんが、「大和」に象徴されるような巨艦を建造してきた技術的蓄積と、「大和のふるさと」として今も残る乾ドックのような恵まれた施設・設備は、民生用途においても寄与するところ大でした。

鉄道技術への移転
また、旧海軍の高い技術は、戦後の鉄道の発展にも寄与しました。
とりわけ、東海道新幹線の建設と、0系車両の開発に当たって、かつて軍で活躍した技術者(特に航空技術者)の果たした役割は極めて大きなものがありました。

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オート三輪
オート三輪。

チャリンコ
チャリンコ。

・・・これも、戦後ののどかな時代のノスタルジー・・・なのでしょうか・・・。

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この「呉の歴史」展示室には、もう一つの目玉として、戦艦「大和」建設から沈没までの記録、また、今もなお九州沖で眠りについている「大和」についての現状報告にかかわる展示もありました
(順路としては、戦前・戦中の呉の歴史と、戦後の呉の歴史の間に位置している展示ですが・・・)。

これについて、極めて簡潔にではありますが、次はまとめてみたいと思います。

「その⑤」(「大和」関連展示)につづく・・・
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キモメン兼デヴ兼クソヲタ兼フニーターで当然の帰結として“プア”・・・。略して“キモプア”。
その中でも(まあ、ほかに“キモプア”を自称する物好きもいないでしょうが・・・)選ばれし“逆”エリートゆえに“紙”(ペーパー的な意味で・・・orz)。

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