四国鉄道文化館探訪記・平成26年夏(その⑧)

「その⑦」のつづきです・・・

展示車両
新幹線の沿線でも何でもなく、一見すると新幹線とは縁もゆかりもなさそうな四国の地に、半分のカットモデルとはいえ0系新幹線の実車(21-141)がいるのは、ひとえに・・・

胸像
4代目の国鉄(日本国有鉄道)総裁として、強力なリーダーシップで東海道新幹線の建設をおしすすめた十河信二氏の出身地であるがゆえです。
ちなみに、十河氏が東京で亡くなった際、遺骨が東海道・山陽新幹線に乗せられて四国の地まで運ばれてきた・・・というエピソードも残されていたりもします。

十河信二記念館
その十河氏の功績をたたえるべく、“四国鉄道文化館・北館”と、“伊予西条駅”の間に建っているのが、この“十河信二記念館”です。
探訪記の最後は、この記念館の訪問記で締めることにします。

1階
1階は、十河信二氏の生涯全体を振り返るパネル展示と、主に国鉄総裁時代の活動について展示されています。

年譜
年譜。
明治17(1884)年生まれの、昭和56(1981)年没。
きわめて長命の人物でした。

四国の地から東京帝國大学に進み、鉄道官僚(戦前の我が国において、国有鉄道は「鉄道院」~「鉄道省」という官庁が直轄していました)として順風満帆の出世街道を歩んだと思いきや、関東大震災後の復興事業に携わって冤罪により官僚を辞さざるを得なくなり、やがては南満州鉄道(満鉄)の理事を務めたり、中国の開発に携わる興中公司の社長を務めたり、終戦直後には地元の西条市の市長(地方自治法ができるまで、首長は官選)を務めたり、鉄道弘済会の会長を務めたり・・・と、とにかくもいろいろしてきた大人物です。

国鉄総裁時代
とりわけ、十河氏の活動のなかでももっともよく知られているのが、昭和30(1955)年に、第四代の日本国有鉄道総裁に就任したことです。
この十河氏の総裁就任なくして、東海道新幹線はもちろんのこと、あらゆる新幹線は存在し得なかったことでしょう。
現在でこそ、「新幹線は必要不可欠」と言って反論されることはまあないと思われますが(地方はともかくとして、少なくとも東海道新幹線のレベルでは)、昭和30年代初頭において、“鉄道なんてもう落ち目の過去の遺物”という認識には根強い物があり、新幹線も最初から国民的支持を得ていたわけではありませんでした。

大東亜戦争中に、口の悪い海軍軍人は、“世界の三バカ”として、

ピラミッド、万里の長城、戦艦大和

と言っていたと伝えられますが、昭和30年代初頭の国鉄部内において、新幹線計画に反対していた人々は、“新・世界の三バカ”として、

ピラミッド、万里の長城、“新幹線”

と、言っていたと伝えられています。結果としてはどちらもとんでもない間違いなんですけどね・・・
(戦艦大和、戦局への寄与という面では大したことがなかったかもしれませんが、戦後日本の“造船国”への発展に際しての寄与は、極めて大きなものがあったのですよ・・・(その辺を目の当たりにしたい方は、呉の「大和ミュージアム」に出かけるのがよろしいでしょう))。

そのような逆風の状況下で、類い稀なリーダーシップで新幹線の建設を押し進め、完成への道筋を付けたことは、やはりどれだけたたえられても足りないことはないでしょう・・・。
もっとも、東海道新幹線の開業を前にした昭和38(1963)年、任期満了によるものとはいえ、十河氏は国鉄総裁を辞することになりました。
本来ならば“自分が総裁として新幹線の開業を見とどけたかった・・・”という思いもあったのかもしれませんが、新幹線に資金を集中するあまり在来線の新線建設が止まったり、三河島事故のような大事故が任期中にあったり、何よりも新幹線の建設費が、(高度経済成長のもとで物価がうなぎ登りに上がっていた時代状況もあったとはいえ)当初の予算を大幅に超過した(国会で予算を通すために、最初から確信犯的に少なく見積もっていたそうですが・・・)・・・といったさまざまな事情が絡み、総裁の任期が更新されることはなかったそうです・・・。
リーダーシップの強い人物は、同時に敵もたくさん作る・・・ということなのでしょうかね・・・。

新幹線と十河
新幹線と十河総裁についてのパネル展示です。




2階に上がると、十河氏の愛用の品々や、授与された勲章等が展示されています。

書斎を再現
書斎を再現したスペース。
身も蓋もありませんが、私がこんな低い机で書き物なり何なりをした日には、足がしびれて身動きが取れなくなることでしょう・・・orz。

愛用の品々
浴衣、すずり、うちわ等の愛用の品々。

名言
名言集。

ほかに、勲章等や、最晩年の十河氏の肉声(動画)等も流れていました。

2階から北館を眺める
東側には、四国鉄道文化館の北館を目の当たりにすることができます。




基本的にはこぢんまりとした施設です。
床面積としては、おそらくはふつうの民家と大して変わらないレベルでしょう。

なお、昨年末の訪問時には、この“十河信二記念館”のカウンターに職員が常駐しており、“四国鉄道文化館”の入館券も、そのカウンターで購入するシステムになっていました。
しかし、“南館”の開館した現在となっては、職員が南館に移ったためか、カウンターは無人となっていました。
“四国鉄道文化館”に比べれば訪れる人の数も少なく(お子様が興味関心をもたないのはしかたないかもしれないにしても・・・)、偉人を顕彰する施設としては、少しばかりの物寂しさを感じないでもありません・・・(せっかく“無料”で公開されているのにもったいない・・・)。

しかしながら、じっくりと展示品を眺めると、“明治の男の生き様”を感じることができるような、そんな気がしました。
なよなよした現代日本男性には、とてもではないですがそんな生き様を真似することはできませんが、圧倒されてくるだけでも、何か変わる・・・と、いいな・・・(苦笑)。

有法子
ちなみに、世間にはあまり知られていないように思われますが、十河氏は中国・満州と極めてかかわりの深かった人物でもあります。
そのためもあってか、座右の銘として、“有法子(ユーファーズ)”という中国語を用いていたそうです。
昭和34(1959)年に刊行され、平成22(2010)年に、JR東海系列の出版社であるウェッジ社のウェッジ文庫から再刊された十河氏の自伝もまた、『有法子』というタイトルです。

余談ながら、十河氏の評伝の決定版として昨年ウェッジ社から刊行された『不屈の春雷』(上下二巻本)を大学の図書館から借りだして、上下巻で700ページばかりあるにもかかわらず、気がついたらどっぷりと引き込まれてしまい、1日半で読み終わってしまったのですが、

いかに知らないことばかりか

・・・という思いでいっぱいです。
いや、(大学バイト講師として、本来は本を読みまくらなければならない立場のはずなのですが)まだまだ知らないことだらけですね・・・。

とりわけ、この評伝の面白いところは、これまであまり焦点が当てられてこなかったように思われる、鉄道官僚や南満州鉄道理事、そして興中公司社長時代の十河氏について丁寧に論じているところです。
自らの不明を恥じるばかりですが、

十河氏が残した膨大な資料なくして、満州国の歴史の研究はできない
(満州史研究にとって必須の資料である)

ということは、この評伝を読んではじめて知りました。

また、満州国建国のきっかけとなったのは、いうまでもなく昭和6(1931)年以来の“満州事変”です。
旧関東軍が、本国政府の言うことを聞かずに暴走した結果・・・ということで、“侵略戦争の第一歩”などとレッテルを貼られて、大日本帝國の“悪行”に数えられることも多い満州事変ですが、十河氏の掲げた“理想・理念”について目の当たりにすると、一方的なレッテルを貼るのもどうなのか・・・と、思わないでもありませんでした。

確かに、「中国との共存」「中国発展のために尽力」ということを“日本人”が言うのは“綺麗事”かもしれません、上から目線の“押しつけ”なのかもしれません(あたかも、世界史に登場する、いわゆる“啓蒙専制君主”がやったことのように・・・)。
それでも、そのような日本人に共鳴した中国人(十河氏の友人となった中国人)がいたことも確かですし、日本人と中国人が手を取り合っていた場面もあったことは確かです。

どこで、両国の歴史はねじ曲がっておかしなことになったのか・・・
(大元をたどれば、大正時代の「対華21ヶ条要求」あたりまで遡りそうですが・・・)

そんなことを、この“十河信二記念館探訪記”を書きながら、また、十河氏の評伝『不屈の春雷』と、十河氏自身の自伝『有法子』の文庫版を読みながら、思わずにはいられませんでした・・・。

(四国鉄道文化館探訪記・平成26年夏/おわり)
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キモメン兼デヴ兼クソヲタ兼フニーターで当然の帰結として“プア”・・・。略して“キモプア”。
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